アーティクル

野生のキリスト教

2012年8〜11月号の「風知一筆」より転載:宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

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「囲みセット」ではなく「中心セット」で

最近知り合いになった専業農家の友人が、自宅の庭で開いたバーベキューパーティーに招いてくれた。その日は彼の奥様も、夜更けまで会話に加わってくださった。主な話題は夫婦関係の回復だった。後日分かったことだが、このご夫婦はもう15年もの間、しっくりいっていなかったらしい。

 

数日後、その奥様が仲の良い友人に夫のことを話した。「少し変わってきたよ。今まで何をしても駄目だったけど。少し会話ができるようになってきたし、返事をしてくれるようになったかな。まあ、時間はかかると思うけど。」明るい顔で、とても嬉しそうに話されたそうだ。

 

二人ともまだ、いわゆる信仰告白をした訳ではないが、キリストを知るための旅をし始めている。現段階でも、神の国(支配)の中にいる喜び、そして隣人を愛する素晴らしさを経験し始めておられるのだと思う。

 

さて、「教会に属する人(以下、「教会人」と呼ぶ)」をどういう人だと私たちは考えているだろう。信仰告白をした後、日曜礼拝に出席するようになり、そのうち洗礼を受けて献金をするようになり、教会の奉仕をし、教団の教理や牧師の指示への忠誠を誓い、伝道集会に家族や友達を連れてくる人をクリスチャンだと考えているのではないか。その上、禁酒、禁煙、聖日厳守、日曜午後の部会や行事への出席という条件まで付いてしまう。

 

このように、ある条件を満たしているかどうかで内と外との境界線を引き、概念を規定しようとする物事の見方を「囲みセット」と言う。これでは、専業農家の人でクリスチャンになろうとする人は極端に少なくなる。

 

囲みセットで「誰が仲間か」を理解しようとするとき、囲みの中にいる教会人は知恵があって上品で清くて安心して付き合えるが、囲みの外にいる人は愚かで下品で汚れていて油断ならないと考えることになる。ある教会人は、未信者のことを「ノンクリ」などと言うが、その言葉を発するときに上から目線のトーンがありはしないか。

 

イエス様は、囲みセットで「自分は神に従う者」と考えていた人たちに向かって、「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」(マタイ21・31)とおっしゃった。イエス様は囲みセットではなく、ご自分との関係で物事を捉えられた。つまり、ご自分を求めているかどうかで判断されたのだ。取税人や遊女たち、はっか、いんのど、クミンなどの十分の一を納めたり安息日を守ったりできない人々が、イエスをもっと知りたい、彼に従いたいと思うようになった。そのように向きを変えたことが、「資格要件」に適うことよりも大切だったのだ。

 

団体規約のような条件ではなく、イエス様が愛しておられる隣人を自分も愛するようになりたいという思い、つまり神の国のライフスタイルという「中心」への方向、あるいは関係性によって物事を判断するアプローチを「中心セット」と呼ぶ。

 

専業農家の友人は、「世界中の誰にも勝って愛するようにと神がおっしゃっている妻」を愛する努力を始めた。教会に来たこともないし、聖書を読んだこともない。タバコは大好きだし酒もたくさん飲む。しかし、15年ものあいだ途絶えていた妻との会話を開始する決心をされた。イエス様を経験する旅を歩み始めたのだ。

 

教会人はどうだろう。本当に配偶者を愛そうと努力しているだろうか。愛する方向を目指しているだろうか。「最も小さい者たちのひとり」(マタイ25・45)を大切にする生き方を追い求めているだろうか。

 

囲みセットで教会を考える人は、たいてい囲みの外にいる未信者の方々をリスペクト(尊敬)しない。にもかかわらず、未信者が囲みの中に入るようになることを期待している。そして、その方法のほとんどは、囲みの中で行なう伝道プログラムに依存している。

 

しかし、中心セットで考える人は、どこにでも出かけて行って、人々の方向を転換しようと心がける。方向転換が起こると、必ずしもどこかの組織につなげる必要はない。その人は既に神の家族である。後は、その人が始めた「イエス様への旅」を続けることができるように助け続けるだけだ。