アーティクル

野生のキリスト教

2012年8〜11月号の「風知一筆」より転載:宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

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「パンダ」ではなく「パン種」で勝負

アルバイト情報サイトのコマーシャルで、「パン田一郎」と名乗るパンダが、「BAMBOO CAFE」と称するカフェにアルバイトの面接に行くというシーンがある。店長に「何が得意なの?」と聞かれて、「人寄せパンダとか…」と答える。その後は、パンダ見たさにカフェに人が押し寄せるというストーリー。

 

「BAMBOO CAFE」の場合はうまく人を集めることができたが、教会は苦戦している。コンサートをしたり、ケーキ作り教室をしたり、子育て講演会を開いたり、または「カウンセリング受け付けます」と看板に書いても、それほど人は集まらない。

 

日本には約8千の教会があるが、その全部を合わせても1年間に8千人ほどの受洗者しかいない。つまり、平均して1教会に1人の受洗者という計算。ところが実は、全体の十分の一程度の比較的元気のよい教会が1年間に10人ほどの受洗者を出していて、あとの90パーセントの教会からは年間一人の受洗者も出ないというのが実態のようだ。

 

さすがに、1994年にビリー・グラハムを招き、東京ドームを4日間借り切って大伝道集会をしたときには、延べ15万人の来場者があり、5万5千人の回心者が起こされたと聞く。ところが、その5万5千人の人たちのうち何パーセントが18年過ぎた今も神との交わりを保ち続けているだろうか。パン田くんがバイトを辞めた後の「BAMBOO CAFE」のようになってはいないだろうか。

 

教会や教団の宣教委員会の議題が、今年はどんな「人寄せパンダ」を使って伝道プログラムを企画しようか、というものなら、その姿勢を根本的に問い直す必要がある。「人寄せパンダ」とは、有名な講師であったり、様々なプログラムであったりする。マーケティングをして、人々のニーズを満たすものを提供するだけなら、人々はパンダを見て満足するかもしれないが、ニーズが満たされると教会を去っていく。教会のプログラムは、まるでスーパーに並んでいる商品のように消費されてしまうのだ。

 

そもそも教会は、助っ人の「人を惹き付ける能力」で勝負する必要はない。キリストの弟子たちには既に、世の人々が憧れ求める魅力があるからだ。それは、キリストに出会って変えられた品性とライフスタイル。キリスト者の笑顔、確信、親切、忍耐、交わりは、たとえ一言も言葉を発しなかったとしても、世界にインパクトを与えている。私たちの存在自体がメッセージなのだ。生き甲斐を見いだせないでもがいている人たち、人を赦せないで苦しんでいる人たち、互いに労り合う友人を求めている人たちが、キリスト者の生き様を見て、生きた聖書を読んでいるのだ。

 

だから、パン田くんを雇って特別なイベントを企画する必要はない。むしろ、神の民に与えられている神の国のパン種が、既にこの世というパン粉の中に混ぜ込まれていることを信じるところから新しい宣教の地平が拓けてくる。外から何かを加えようとするのを止めて、私たちの中におられるキリストに信頼するところから始めよう。

 

マタイの福音書第5章にある山上の垂訓は、弟子たちの祝福から始まっているが、それらの祝福された弟子たち自身が「地の塩」であり「世の光」だと説かれている。弟子たちは地に撒かれて、土の免疫力や結実の力を媒介する者とされ、世の中で輝いて、人々に生きる道を示す者とされている。その役割を果たすため、「塩け」つまり自己犠牲を厭わずに神と人に仕える者としての本質を保ち続け、「光」つまり真理を多くの人々の前に明らかに提示するようにと命じられている。

 

教会堂という非日常的な場所に「人寄せパンダ」を餌にして人を集めても、キリスト者の生き様を見せることは難しい。普段の生活こそが、塩、そして光としての違いが現れる場所であるはずだ。家族や友人や同僚や近所の人々に具体的に愛を表わすことは、感動的な説教や、クオリティの高いイベントに勝る。

 

神に支配されたライフスタイルの素晴らしさは、畑に隠された宝のようだ。人がその宝を見つけると、大喜びで人生を献げるだろう。それは、スーパーで千円の買い物をすることとは異質の出来事なのだ。