アーティクル

野生のキリスト教

2012年8〜11月号の「風知一筆」より転載:宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

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かわいい子には旅をさせよ

水族館に行ったとき、なぜサメがイワシやアジを襲わないで、仲良さそうに並んで泳いでいるのかという疑問を抱いたことはないだろうか。自然界では小さな魚を捕食するサメも、水族館ではおとなしくしている。

 

水族館のサメには十分な餌が与えられているため、あえて狩をして体力を消耗するようなことはしないというのがその理由。かくしてサメは、水族館という人工的な水槽の中で、神に与えられた狩猟能力を発揮しないまま一生を過ごすことになる。

 

水温や水質だけでなく、空腹の加減まで見通されて人工的に飼育されている魚たちは、危機感を失い、狩猟に代表される自立のための生命維持能力を失っていく。それだけではなく、子孫を残す能力も失っていく。自然の中では、自分で捕食しなければならないし、天敵とも戦わなければならないが、人工授精などしなくても自然に繁殖する。

 

守られた環境の中で生きる水族館の魚が狩猟能力と繁殖能力を失ってしまうように、キリスト教会の中でも回心者を保護し過ぎると、自分で神に聞く能力や霊的子孫を産み出す力を失ってしまう。

 

東南アジアのある国の友人のネットワークでは、過去3年半の間に1000のイエスに従う群れが起こされた。彼らは回心者に洗礼を授ける際に、洗礼後に起こる3つのことを説明する。第1に迫害、第2にコミュニティからの放逐、第3に殉教だ。これらのことは受洗直後には起こらないかもしれないが、いつか必ず起こる。「それでも洗礼を受けるか?」と問うのだ。98パーセントの人が、それでも洗礼を受けると答えるという。

 

同国のある村で、イエスに従う者がいることが村人たちの知るところとなった。村人たちは、彼とその家を焼くために集まってきた。そこで彼は言った。「感謝します。私は皆さんに焼き殺されましょう。ただ、その前に一言言わせてください。」村人たちは、剣や松明を持っていた手を下ろして話を聞き始めた。その人は、なぜイエスに従うようになったのかを話し出した。ところが、それを聞いた人々はますます怒り、彼に向かって突進した。

 

その瞬間、天から火が下り、彼の周りに火の柱が立った。火が収まった後に彼が群衆を見ると、皆が後ろに倒れていた。数週間たってから、村人が一人ひとり彼を訪れては、「あの火はどこから来たのか?」と訊くようになった。そして、次第にイエスに従う人たちが増えていった。今では村の半数がイエスに従うようになったという。

 

こういうのが「野生のキリスト教」なのだと思う。手厚い牧会的なシステムもないし、伝道集会を開くこともない。一人ひとりの信徒が必死の思いで直接神に祈り求め、経験したことを周囲に証ししている。実はその地域では、家を焼かれた事例もたくさんある。にもかかわらず、迫害が宣教を加速させている。家を焼かれて散り散りにされた人たちは、散らされた所で福音を証ししているのだ。

 

回心者を安全な水槽の中に入れてしまうと、収穫の海で繁殖しなくなる。だが、海で生まれた魚は、人の手を借りずに神に与えられた能力を発揮し、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という創造の目的を果たすようになる。

 

聖書には、イエスに出会った直後から神の国のために用いられた人たちが多く記されている。汚れた霊につかれていたゲラサの男はその代表例だ。彼は町中に証しをした。回心直後に、「あなたが救われたのは、出て行ってすべての民を弟子とするためだ」という方向づけを与えられた人は幸いである。その人は、冒険に満ちた世界の中で、本能ならぬ「内住の聖霊の力」を経験するようになる。

 

「手を伸ばしなさい。」(マタイ12・13)と命じられた人の手が伸びたように、「出て行きなさい。」という主の声に従おうとする人たちは、恵みによって出て行くことができる。主イエスは、弟子たちを各地に派遣されるにあたって、安全な場所を選んで送り出されたのではなかった。

 

回心者を、指導者やシステムに依存させるのではなく、神と直結するように励まし、各自が自立的に宣教の戦いを進めていくことができるよう助けるべきだ。