アーティクル

天外内トレーニング

日本でキリストの弟子となるために

宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

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その12 ドミノを倒す

平安の子を見分ける

幼いときに友人を交通事故で失い、そのトラウマから死に対する恐れに囚われていた大学生が、イエス様に出会いました。彼は回心直後から、神の実在と愛と永遠の命について、家族や友人に証しし始めました。

 

彼の証は洗練されたものではなかったのですが、「生きておられる神に出会った」というリアルな話を聞いた人々が、1年間で百人以上イエス様を受け入れました。

 

この大学生はまるで、ルカの福音書10章6節に出てくる「平安の子」のようです。平安の子は、いわば、平安の子が所属する「世間のネットワーク(=共同体)」の中に置かれた「最初に倒れるドミノ」です。外部の働き手に与えられた大切な使命は、最初のドミノにタッチして〝ドミノ倒し〟を起こすことです。

 

では、平安の子をどのように見分けることができるでしょうか。平安の子は3つの特徴を持っています。それを、「ひ・か・り」という言葉で覚えています。「ひ」は開いている。「か」は渇いている。「り」はリーダーです。

 

第一に平安の子は、心を開いて私たちの言動に関心を示し、自ら進んで教えを聞こうとします。

 

ところが、心を開いている人ならすべて平安の子という訳ではありません。私たちに近づいて来る人が、必ずしも真理に渇いているとは限らないのです。

 

いつも得になること、都合のよいことだけを求めている人がいます。彼らは、自分の生活に真理を適用してイエス様に従うことを求めません。永遠の宝を得るために、何かをあきらめたくはないのです。むしろ神様を利用して、自分の願望を達成しようとします。

 

彼らは、「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(マタイ13・20、21)

 

第二に平安の子は、真理に渇いていて、生活を変えたいと思っています。

 

ところが、自分は渇いていても、共同体内の他の人々に対して無関心な人がいます。彼らはたいてい、自分のことで精一杯で、隣人に良い影響を与える心の余裕がありません。彼らの関心は内向きで、自己充足や問題解決を、福音宣教と弟子育成、共同体の成長よりも優先してしまいます。こういう人たちは、「この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結」(22節)びません。

 

第三に平安の子は、外からの働きかけに応答して、内で宣教を担うリーダーです。彼らは「家族や友人が弟子育成者となる」という神の御心を悟ります。「その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(23節)

 

平安の子は、すでに共同体の中で持っている影響力を福音のために行使します。外部からの働き手は、平安の子が、ただ弟子を育てるだけでなく、「弟子を育てる弟子」を育てることができるように育成する役割を担っています(第二テモテ2・2参照)。平安の子や、その関係者は、弟子育成ムーブメントの起点となり得る人たちなのです。

 

ゴキブリと蛾

このように聖書には、実を結ばない土地があると記されています。「この人は」と思った人が去ってしまっても、精一杯ケアしている人がちっとも外向きにならなくても、必要以上に責任を感じて失望してはなりません。多くの場合、問題は、種をまく側ではなく、土地そのものにあります。

 

しかし幸いなことに、神は私たち抜きで福音が広がるように、各共同体の中に平安の子を置いておられます。この人たちが未来を開きます。

 

ある人が、平安の子を蛾に、その他の人をゴキブリにたとえています。ゴキブリは光に照らされると逃げますが、蛾は近づいてきます。ゴキブリを追いかけないで、蛾だけをつかまえるならば、家族ごと、友人のネットワークごと、会社ごと、学校ごと、地域ごと一挙に救われるという大きな御業を期待することができます。

 

平安の子へのアプローチ

それでは、平安の子にどのようにアプローチすれればよいでしょうか。

 

「天外内」の順番で説明しましょう。「天」の要素は、祝福と預言です。

 

「どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。」(5節)と命じられています。そこに平安の子がいたら、その人の上に平安が留まります。また平安の子と出会ったら、他の家を渡り歩かないで「平安の家」に留まるようにと指示されています。

 

イエス様は、弟子たちを派遣するとき、何を話すかは教えられませんでした。「口を開くとき、語るべきことばが与えられ」(エペソ6・19)るからです。弟子たちは「父の御霊」(マタイ10・20)の導きのままに、預言的に会話を進めたのだと考えられます。

 

「外」の要素は、奉仕と伝道です。

 

ユダヤ人の旅人が町に到着すると、シナゴグの責任者が宿泊の手配をし、2日間は食事と宿泊の世話をしてくれました。弟子たちは、滞在3日目から泊った家の家業を手伝い、平安の家に仕えたと考えられます。弟子たちが持ち物の携行を禁止された理由の1つは、平安の子とそういう時間の過ごし方をするためです。

 

また弟子たちは、一緒に働いたり食べたりしながら、誰に遣わされてその町を訪れたのかを説明したことでしょう。彼らは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11・5 新共同訳)ことを証しし、自ら病人を癒すことを通して神の力を実証しました。

 

最後に、「内」の要素は、悔い改めと交わりです。

 

イエス様を迎え入れたザアカイは、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19・8)と告白しました。それと同じように、弟子たちが担った神の臨在が、「神の国の到来」(ルカ10・9)を平安の子に確信させ、ライフスタイルの更新を促したと考えられます。

 

また、「出される物を食べ」(ルカ10・8)ることは、「すべての人に、すべてのものとな」(第一コリント9・20)るという受容と謙遜の表明です。共同体の外から来て福音を紹介する者は、キリスト以外の何物も、その文化の中に持ち込まないように注意しなければなりません。

 

イエス様は「実りは多い」と宣言されました。だから、私たちのまわりにはたくさんの平安の子が配置されています。平安の子は、共同体の中に「たくさんいる主の民」(使徒18・10参照)が根こそぎ救われ、共同体が「宣教の民」となるために用いられます。