アーティクル

天外内トレーニング

日本でキリストの弟子となるために

宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

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本稿は、「リバイバル・ジャパン」に掲載した「天外内トレーニング - 日本でキリストの弟子となるために」と題する記事を転載したものです。この記事に加筆・再編集して一冊にまとめた『敬天愛人 - 収穫のための働き人の育成』(福田充男著、1,260円)も、好評発売中です。

 

その1 敬天愛人

イエス様の評価こそ重要

才能豊かなピアニストがいました。まだあどけない少年でした。演奏が終わると、聴衆は立ちあがって惜しみない賛辞を贈りました。やがてコンサート会場にアンコールの拍手が湧き起こりました。

 

けれども、舞台の袖にいた少年は、それに応えようとしません。司会者が言いました。「みんな立ち上がってアンコールしていますよ。」少年は答えました。「2階の中央のあの老人は立っていません」

 

司会者は憮然として言いました。「あの人は耳が悪いのかもしれないし、足が悪いのかもしれないじゃないですか。他の人は皆立っているでしょ」

 

悲しそうに少年は答えました。「いや、あの人は僕のピアノの先生なんです」

 

少年にとって、聴衆の拍手喝采は、あまり意味のないものでした。会場に多くの人がいても、彼は一人の人の前で演奏していたのです。たとえ、だれも評価してくれなかったとしても、誰よりも自分を知ってくださっている先生が評価してくれたら、少年は心の奥底で満足できたはずです。

 

私にとって、イエス様は、この少年にとっての先生のような方です。人生が終わるとき、「お前はよくやった。ずっと見てたよ。よく頑張った。君が一所懸命だったことを知ってるよ」と言われたら、それですべての労苦は報いられることでしょう。そのことを夢見て、私は毎日生きています。それがあるから、今日も精一杯生きようと思うのです。

 

完成させるのは神ご自身

聖書は、人が正しく生きることができるように導く書です。

 

亡くなった叔母は、若いときに新約聖書を買い求めて、持っていました。「なぜ読んでいるの」と聞くと、「美しい言葉が書いてあるから」と言っていました。

 

叔母が好きだと言っていた言葉は、マタイの福音書6章28~30節でした。

 

「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」

 

生け花をしていた叔母は、花を着飾らせておられる神様を求めていたのだと思います。晩年、彼女はイエス様を信じて天に召されました。

 

また叔母は、よく刺繍をしていました。きれいなレースの編み物から、売り物になるような人形まで、器用に作りました。

 

裏返して刺繍をしているときには、全体の構図がわかりにくいし、糸玉になっているところもあります。ところが、完成した作品を見ると、なるほど、この黒い糸は、この模様を引き立たせるために使われていたのか、などと納得するのです。

 

人間は神の作品です。人生が全うされるときに、神は完成された刺繍を裏返してご覧になり、美しい作品だとおっしゃいます。

 

生きているとつらいことにも会います。「なぜ、私にこんなことが起こるのですか?」と叫ぶときもあります。しかし、作品を完成させられるのは神ご自身であり、私たちが出会う事柄には意味があるのです。

 

ピカソやドガのデッサンは、描きかけだったり、未完成だったりするのに、非常に高価です。それと同じように、私たちの人生は未完成で粗削りかもしれませんが、作者である神が素晴らしいので、作品にも価値があるのです。

 

神は、自然を創造されました。すべての被造物は神の美しさを部分的に反映しています。ところが、人間だけは、神が「ご自身のかたちに創造された。」(創世記1章27節)と聖書は証言しています。ここに私たちの尊厳があります。それが、すべての人を敬う理由なのです。

 

人生が神の作品だという事実を、すべての人が認め、日々自分を形作られる神の手の働きに感激しながら、一日を始めることができればいいなあと思います。

 

自分が神の作品だという事実を喜んで受け入れるには、練習が必要です。なぜなら、多くの人たちは、成長過程で自分の尊厳を傷つける言葉を聞いて育っているからです。

 

今も、「あなたには価値がない」というメッセージが世界に満ちています。だから、私たちは作者である神様の声を、毎日聞く必要があるのです。

 

「敬天愛人」という生き方

神は、私たちに2種類のことを話してくださいます。

 

一つは、どんなに私たちを愛しておられるか、という愛の表現です。そしてもう一つは、どのように生きるべきかという具体的な指示です。

 

カーナビがあれば、知らない土地でも何とか目的地にたどり着けます。それと同じように、神は天から私たちをご覧になり、どちらの道に進むべきかを教えてくださいます。そして、神に教えられながら旅を続けることが、もっとも安全で、もっとも充実した生き方なのです。

 

神は、私たちのお尻を叩いて、無理やりにある方向に進ませようとはされません。まずご自身が先立ち、私たちの名前を呼ばれます。だから、それが未知の地であっても、私たちは声の聞こえるところ、つまり、イエス様のおられるところまで進めばよいだけです。

 

神に従って生きること、つまり神を畏れることが「知識の初め」(箴言1章7節)です。また、それが、神を愛することなのです(第一ヨハネ5章4節)。

 

神はいったい、何を指示されるのでしょうか。それは、イエス様がはっきりおっしゃっています。

 

「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネの福音書13章34節)

 

イエス様は、私たちが永遠の生命を得るために、ご自身を捨てて、しもべとなって仕え、最後は、いのちを捨ててくださいました。

 

そのように、私たちも他の人を愛するようにと、神は指示してくださいます。

 

「敬天愛人」。それが私たちの生き方です。

 

「天外内トレーニング」では、神の前に人としてどう生きるのかというテーマ、つまり「敬天愛人」の具体的な適用について教えています。

 

「天」は神との関係、「外」は世界との関係、「内」は自分自身と仲間との関係を表現しています。だれでも覚えることができ、また簡単に他の人に伝えることができるシンプルなデザインです。

 

次回から、その詳しい内容を説明していきます。