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シンプリーチャーチ

宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

[ 第9章  あなたはあっち、私はこっち ]

 

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  1. はじめに
  2. 第1章  パラダイムシフト
  3. 第2章  聖域にメスを入れよう!
  4. 第3章  教会と神の御国
  5. 第4章  現在の神の御国と、まだ実現していない神の御国
  6. 第5章  では、教会とは何か
  7. 第6章  共に集まるとき
  8. 第7章  では、いったいだれがボスなのか
  9. 第8章  だれもがみな大切!
  10. 第9章  あなたはあっち、私はこっち
  11. 第10章 教会を始めてもいいですよ
  12.  ○付録
  13.  ○後注

 

第9章:あなたはあっち、私はこっち

新約聖書全体をさっと読むだけでも、当時の教会が愛し合う、本当の関係に基づいて築かれていたことが感じられます。使徒2章の最後の部分や使徒4章には、初代教会のクリスチャンたちがどのような生活をしていたかがはっきりと描かれています。 彼らは食事を、持ち物を、そして生活を分かち合っていました。

 

とても建設的な学び方の一つは、新約聖書に書かれている「互いに」ということばを探していくことです。他の多くの命令と共に、私たちは互いのためにいのちを差し出し、互いを建て上げ合い、互いの重荷を負い合い、互いに優しく、親切に関わり合い、互いに戒め合うようにと命じられています。 このようなことは、日曜日の集まりで他の人たちの頭の後ろを見ていればできることではありません。これらの命令には、単に集会のときだけでなく、日々生活を共にすることが示唆されています。 互いの重荷を負い合うという命令を行うことによって、キリストの律法を全うすることができるのです。61,62

 

それはつまり、教会にいる他の人たちのことを、彼らが抱えている問題も含めて十分に知っていることや、ここならば何を話しても大丈夫だという安心感をもって、傷ついたときに心の最も深いところにある思いを分かち合うことを意味します。

 

私たちはアメリカに来てからの数年間、様々な教会に行きました。そのうちのいくつかは多くの点ですばらしい教会でした。しかし私たちが出席した教会のうちの2つでは(私たちはそれぞれの教会に1年以上通いました)、教会の扉で歓迎された以外は、ほとんどだれとも話をすることがありませんでした。 もちろん、私たちの側にもいくらか責任があります。私たちは様々な理由から(ほとんどが悪い理由ですが)、自ら積極的に彼らと親しくなろうとしなかったのです。 しかし、私たちを招き入れようとしてくれた人もだれ一人いませんでした。そのうちの一つの教会では、トニーが週末に働いていて私しか教会に行かなかったので、人々は私をシングルマザーであると思っていたようです。 だれもトニーと会ったことがないので、私が結婚していると思うこともなかったようです。私は自分が受けた扱いが大きく異なっていたことに気づかされました。私たちがロンドンである教会の開拓を助けたときのことが忘れられなかったので、それは私にとっては辛い体験でした。 ロンドンの教会では新しい人が来たとき、集会が終わるまでに、少なくとも2人以上の人がその人を食事に誘うという習慣がありました。イギリスとアメリカでは文化が違うことは私にも分かりますが、しかし原則は同じです。 あるとき、私たちがある教会を訪ねた後、1週間のうちに2回の電話、1通の手紙をいただきました。またある人が私たちのもとにクッキーを持ってきてくださり、その人の家でなされているグループに誘ってくださいました。 私たちはただそれだけの理由で、その教会に所属することを決意しそうになりました。

 

 

新約時代のクリスチャンたちは、確かに多くの時間を共に過ごしました。今日の忙しいアメリカにおいて、どのようにしてこうすることができるでしょうか。私たちが抱えている問題の一部は、私たちは自分の家を完璧にしなければ他の人たちを招くことはできないと感じてしまうことにあります。 家具には少しの傷やほこりがついていてはいけない。子どもたちは行儀よくしていなければいけない。そしてコンロで一流の家庭料理を作らなければいけない!。もしそれが私たちの基準であるなら、私たちは決して互いを知り合うようにはなれません!。 ご近所の一家族を誘って一緒にピザを食べ、それから子どもたちと一緒に野球を観に行ってみてはどうでしょう。あるいは、母子家庭や父子家庭を誘って、一緒に映画を観てはどうでしょう。その家族にとっては、だれかに誘われるのは久しぶりのことかもしれません。 そして、あなたにとってもその週のハイライトになるかもしれません!。

 

私たちはロンドンにいた頃、ある家の教会に数人の看護師がいました。彼女たちは非常に不規則なスケジュールで働いていました。私たちは治安があまりよくないロンドン市の中心部にいたのですが、彼女たちが家に帰るには公の交通手段を使うしかありませんでした。 夜間は安全とは言えず、それを使うことは心地よいものではありませんでした。その家の教会は、彼女たちに夜遅く公の交通手段を使うことを望みませんでした。そこで彼らは毎週彼女たちのスケジュールを教えてもらい、彼女たちの仕事が終わったらだれかが車で迎えに行って家まで送ることにしました。 最初の1週間や2週間は問題ありませんが、これを何ヵ月も続けていくのには相当な覚悟が必要です!。これこそ、他の人のために自分のいのちを差し出すという生き方を実践的に表したものなのです!。

 

私たちも子どもがまだ小さかったとき、このような助けを個人的に体験しました。教会にいたある独身の女性が、イエス様への奉仕として、毎週私たちの家を掃除することを決意しました。小さな子どもたちが3人いて、数多くの人々が訪ねに来る、築年数100年の4階建てテラス付きの家を掃除することは、簡単なことではありません。 しかも、彼女はお金は1セントももらわないと言うのです!。だれかがあなたのために、このような具体的な仕方でいのちを差し出してくださるとき、本当にへりくだらされます。 また、深い友情も築くことができるのです。

 

一週間に最も長くても2、3回、一度につき1時間程度しか会わないのでは、「共同体」としての感覚を楽しむことは困難です。クリスチャンたちがより有意義な仕方で互いの生活を分かち合いたいと願い、時間を共に過ごすために優先順位を調整し始めることはすばらしいことです。

 

 

新約聖書には、クリスチャンたちが単に時間を共に過ごしただけでなく、持ち物も分かち合っていたことが書かれています。持っていたものを自分のものであると主張した人はだれ一人いませんでした。すべてのものを共有していたのです。何年も前になりますが、私はA.W.トウザーの5つの誓約にチャレンジを受けました。 そのうちの一つは、絶対に何も所有しないという誓いでした。つまり、私が持っているものを、主にお好きなように使っていただく、ということです。何かをささげるように主に言われたなら、それを自分のものとして固執せずにささげるのです。 ここで問われる原則は、所有者(オーナーシップ)ではなく、良き管理者となること(スチュワードシップ)なのです。私は自分にゆだねられたものをよく管理する必要があります。私はだれかに物を貸すとき、その人たちがそれを私から借りたときと同じくらい、 あるいはより良い状態にして返してくれはしないと分かっているとき、それを貸すことに躊躇するかもしれません。しかし、それ以外については、私が持っている物質的なものは私のものではありません。 もし私たちが動力工具、芝刈り機、または車といったものを共有するなら、どれほど多くのものを神の御国のために用いることができるでしょうか。

 

私(フェリシティー)は私たちにもたらされたもう一つの祝福について決して忘れることができません。私たちが新婚だった頃、私たちが開拓を助けようとしていた学生たちの教会のあるメンバーが、私たちには車が必要であると考えてくれました。 彼女は私たちに知らせることなく、夏休み中働き通し、そして彼女が得た全収入を私たちにプレゼントしてくれました。私たちがどれほど驚き、どれほどそれを受けるのに価値がない者であるかと感じたか、そしてそれがどれほどの祝福であったか想像してください!。 振り返ると、結婚したばかりで医学部の学生として忙しい日々を送っていた私たちが、その車のおかげで多くの時間を節約でき、どれほど多くの人々に触れることができたか、思い出されます。 彼女は実際にはこのギフトをキリストにささげたのでした。そして私たちは彼女の惜しまない心のゆえに、神の御国のためにより効果的に生活することができたのでした。

 

生活を共有することは、しばしば最も困難なことの一つです。パウロはIテサロニケ2:8でこう述べることができました。「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけでなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。 なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」私たちの文化においては、弱さを見せることはよくないこととされています。私たちはみな、仮面をかぶりながらあちこち歩いているのです。実際には結婚生活が破綻していたり、今週食べるものがなくて困っていたり、 子どもたちが暴れるので怖いと感じていたり、あまりにも落ち込んでいて今日一日を過ごすことができるか分からないと思っていたりするのに、明るい笑顔と「すべてうまくいってます」という仮面をかぶっているのです。 それが当たり前のこととなってしまっていますが、それとは対照的なことがIヨハネ1:7のような箇所に書かれています。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」 ここには透明な関係があり、他の人たちに本当の自分を見てもらおうという思いがあります。このように心を開くことは、時には傷を受けることにもなりますが、人々が互いに愛し合うとき、傷つけてしまう可能性も絶えず伴うのです。 私たちが最も愛する人たちこそ、私たちを傷つけることがあります。では、傷つけられたくないので他の人の愛を受け入れないのがいいのでしょうか。 イエス様は私たちをこれほどまでに愛してくださったので、私たちのためにいのちを捨ててくださいました。愛は多くの罪を覆います。そして、愛は、キリストのからだが生きていることを示し、それを建て上げます。

 

私たちは信頼している兄弟や姉妹に、安心して、自分の心の奥深くにあることを分かち合うことができますか。それには多くの勇気が必要です。また別な見方をするなら、私たちは秘密を守り、相手を裁かずに無条件に愛することができますか。 ヨハネの手紙第一には、互いに愛し合う必要があることについて語っている箇所が多くあります。兄弟を愛さないなら、どうやって目に見えない神を愛することができるのか、と何度も何度も問いかけてきます。 私たちの神への愛は、私たちの兄弟姉妹に対する愛によって測られるべきなのです。

 

 

私たちはただ単に集会やプログラムに参加するのではなく、関係に基づいた教会を建て上げるという新約聖書の基準に到達するというチャレンジに向けて、立ち上がる準備はできているでしょうか。それをするために自分の生活における不便を感じることもいとわないでしょうか。 母子家庭の子どもを一日預かってお母さんが休めるようにしたり、時間をとって病気の人や刑務所にいる人を訪問したりする準備はできているでしょうか。

 

ヨハネ13:35には、私たちが互いに愛し合うときこの世は私たちがイエス様の弟子であることを認める、と書かれています。今日、教会に本当の関係を見出すことができないために、この世の人々だけでなく、多くのクリスチャンでさえ教会から離れていっているのは、 それほど驚くべきことでしょうか。

 

 

 

©著作権:2002 Tony and Felicity Dale 2006 日本語版発行
発行者:日本バプテスト宣教団(SBC IMB PacRim JO)メディア部
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