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シンプリーチャーチ

宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

[ 第8章  だれもがみな大切! ]

 

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  1. はじめに
  2. 第1章  パラダイムシフト
  3. 第2章  聖域にメスを入れよう!
  4. 第3章  教会と神の御国
  5. 第4章  現在の神の御国と、まだ実現していない神の御国
  6. 第5章  では、教会とは何か
  7. 第6章  共に集まるとき
  8. 第7章  では、いったいだれがボスなのか
  9. 第8章  だれもがみな大切!
  10. 第9章  あなたはあっち、私はこっち
  11. 第10章 教会を始めてもいいですよ
  12.  ○付録
  13.  ○後注

 

第8章:だれもがみな大切!

私たちが医学部の学生だった頃、病院内のクリスチャンのグループで、普通ならなされない、ある実験に関わっていました。 だれもがみな病院で多くの時間を共に過ごしていたので、私たちは日曜日に行く様々な教会のメンバーとしてではなく、この大学内で実際に教会として機能することにしました。そこで、自分たちの集まりを教会と呼ぶことにしました。 当時、このようにすることは物議をかもし出すものとして見受けられ、私たちはやがてインターバーシティー・フェローシップ(訳注:超教派の学生伝道団体)から追い出されることになりました。 しかし、私たちはこのような悪評を受けることに満足しました。これは1960年代に起きた出来事です!。

 

私たちは最初から、どのように教会を運営するかについて、ただ聖書だけを私たちの教科書とすることに決めました。教会、また教会生活について、聖書が何を語っているかを自分たちで学び、理解することにしたのです。

 

聖書に最初から記されている神が本来意図したことは、この地において神ご自身を代表する民を育てることでした。出エジプト19:5−6にこう書かれています。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。 全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」イスラエルの子たちは神がおられる山に登ることは許されませんでしたが、神がモーセに語りかけられるのを見て、聞くようにされました。 山から火と煙が立ち昇るのを見て彼らは恐れを抱き、神が彼らに直接語りかけられるのではなく、モーセに神のことばをとりついでもらうように求めました。神と直接交わることは、恐ろしいことであったのです。

 

その後、サムエル記第一において、イスラエルの民は自分たちを導く王を求めます。「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」53 サムエルがこのことについて主に祈ったとき、主は彼にこう語られました。「…民の声を聞きいれよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。…」54私たちの教会においても似たようなことが行われています。 一般的に、人々は自分の時間と労力を費やして積極的に参加するよりも、だれかに導いてもらうことのほうを好みます。 主のみ声を聞くことについても、多くの人々は自分たちで本当に主を待ち望むよりも、通りがかりの預言者からの「おことば」を求めるのです。

 

 

旧約聖書全体を通して、やがて神がこの状況を変え、人々を本来の目的に立ち返らせるということがほのめかされています。エレミヤ31章には、神がご自分の民との間に新しい契約を結ばれるという計画について記されています。 「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。…彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。」55 神はエデンの園において持っていた人間との交わり、個人的な関係を回復することを願っておられます。「愛なる方」として示されている神が、ご自分の民、ご自分の子どもたちと引き離されたままでいることなど、どうして我慢することができるでしょうか。

 

新約聖書ではこのことを反映した教会の姿が描かれています。Iペテロ2章には、私たちが神による霊の家に築き上げられていることが書かれています。 「そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」56さらにその後の9節にはこう書かれています。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。 それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」 私たちが新しい契約のもと、神がもともとモーセに語られた祭司の王国となり、他の人々に神を指し示すべきであることは明らかです。

 

教会について新約聖書に最もよく示されている姿は、からだです。それは単なる、私たちの年老いたからだではありません。これはキリストのからだです。ローマ12章とIコリント12章は、このことについて鍵となる箇所です。 肉体的なからだは、多くの異なった部分がそれぞれの機能を果たします。しかし、からだが健全に機能するためにそれぞれが必要です。キリストのからだについても同じです。私たちはみな、霊的なからだにおける異なった部分です。 一人一人異なった機能を持ち、からだが健全に機能するには全員が必要です。他の人たちの助けを得ることなしに自分だけでやっていける人は一人もいません。もしメンバーの一人が正しく機能していないなら、そのためにからだは弱くなってしまいます。

 

1967年にトニーがイギリスに来たとき、最初の日曜日に当時マーティン・ロイドジョーンズ博士が牧師をしていた、あの有名なウエストミンスターチャペルに行きました。礼拝の後、この大きな教会のある人たちが、トニーが新来者であることに気づきました。 彼らはトニーのもとに来て、一緒に昼食を食べませんかと誘ってくれました。トニーはその日イギリスで最も有名な説教者が何を語ったのか一言も思い出せませんが、彼を昼食に誘ってくれたこの家族の親切を消して忘れたことはありませんでした。最も大切なのはだれでしょうか。 教会に来る人々を歓迎する人でしょうか、あるいは説教をする牧師でしょうか。そのごく普通のクリスチャン一家は、このイエス様のことばを実践していました。 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」57

 

 

残念なことに、しばしば教会はこのようには機能しません。大多数の教会では、新しく来た人は何度も教会に来ながらも、個人的なレベルではだれとも会うことがないのです。私たちは本来ならチームとしてフィールドに出て試合をすべきにもかかわらず、教会がスポーツ観戦をする場所のようになるのを許してしまっているのです!。 私たちはジョン・ウインバーが言うように「仕事をする」べきであるにもかかわらず、長いすに座り、だれかの頭の後ろを眺めているのです。Iコリント14章とローマ12章には、預言すること、教えること、奇蹟を行うことなど、私たちのすべき「仕事」のリストが記されています!。 集会で何をすべきかについて新約聖書に書かれている唯一の箇所であるIコリント14:26には、「あなたがたが集まるときには、それぞれの人が…」と書かれています。 私たちはみな、これからなされることに参加するという思いをもって集会に集まるべきです。

 

私たちが医学部の学生だった頃、聖霊に集会を導いていただき、一人一人が集会に貢献できることを持ち寄り、それらを何らかの仕方で聖霊にまとめていただこうと決意しました。時には、主が私たちと共におられるとは全く感じられないような痛みの伴うときもありました。 主の臨在によって圧倒されてではなく、ただ沈黙が続き、だれかが何かをしたり、言ったりしてくれないかと願うような、ひどいときもありました!。そのときは、あまりにもひどかったので、みんな家に帰りました。 しかし次第に、数ヵ月のうちに、私たちのうちに主の臨在をより本当のものとして感じられるようになっていきました。私たちは聖霊のリーダーシップによる集会というもののすばらしさを学び、聖霊が最も不思議な仕方で集会全体をまとめてくださるということも頻繁に体験しました。 すぐに、イギリス中から多くの人々が、神がしておられることを見るために私たちを訪ねてくるようになりました!。毎週、人々は救われ、聖霊に満たされ、彼らが体験したことをイギリス中の教会やクリスチャンの学生のグループに持ち帰っていきました。

 

そのとき以来、私たちは『ソーラ・スクリプトゥラ(聖書のみ)』を私たちの働きの原則として保つように心がけています。新約聖書こそ、教会生活の教科書です。 他の教会と同じように運営すること、つまり自分たちを取り巻く他のすべての国々のように王(主任牧師)を求めることのほうが、しばしば簡単にできるように思えますが、私たちはそれが聖書的な原則であると理解したことは一度もありません。 私たちは、一人一人が霊的な可能性を最大限にまで伸ばすことができるような構造を教会が持つことを神が意図されたと心から信じています。この本の前の章で見たとおり、本来リーダーシップは一人の人にではなく、 賜物が与えられた人々からなるチームにゆだねられるべきであり、それによってキリストのからだを構成するそれぞれのメンバーが美しい仕方で機能するように遣わされていくべきなのです。

 

このような決意のゆえに、私たちは絶えず小グループを強調してきました。小さいことは美しいのです!。小グループでは、一人一人が集会に積極的に参加する可能性があります。 どのように聖霊に従うべきかを学ぶのに、恐れを感じることのない小グループよりもよい方法はありません。ここでは、預言を語り、教え、ワーシップをリードすることを学ぶことができます。 あらゆる面において奉仕のための訓練を受けるのに適した場所なのです。

 

 

では、大人数の集会は必要ないのでしょうか。そんなことは絶対にありません。大きいことも美しいのです。何千、あるいは何百もの人々と共に、みんなで主を礼拝することほど、活気づくことはありません。 初代教会では、弟子たちはただ家々で集まっただけでなく、神殿でも集まりました。使徒たちはただ家々で教えただけでなく、神殿の庭、また会堂や講堂などで多くの人々に対して教えました。

 

ある人たちは、小グループを強調するなら子どもたちはどうなるのですか、と思うかもしれません。子どもたちは実際は「今日の教会」であるにもかかわらず、「明日の教会」と見なされ、教会の集会に参加できないことが、あまりにもしばしばあります。 私たちの経験では、子どもたちは特にワーシップのときに重要な役割を担います。その後、大人たちがみことについて分かち合うときに、子どもたちは遊びに行ったり、彼らにとってふさわしい教えを受けたりします。 子どもたちは参加することが許されるとき、よく歌を歌い始めたり、祈りを必要としている人たちのために祈ったりします。私たちは子どもたちの参加を通して、主の御霊が集会に直接介入され、予定していたのとは全く異なった仕方で導いてくださることをしばしば経験しました。 聖霊は、私たちを年齢や性別によって分け隔ることのないお方です!。58

 

一人一人がキリストのからだの一部として機能することを期待することの結果、人々が派遣され、神の御国のために自らイニシアチブを取るようになります。 例えば、私たちの教会には自分たちの職場で伝道的なディスカッショングループを行っている人たちがいます。またある夫婦は、結婚生活に関する問題を扱うホームページを運営しています。59 別の夫婦は、イースターの時期に行う特別な働きを通して売春婦たちに伝道しています。60さらに、家を建築するプロジェクト、ルーマニアへの宣教旅行、モザンビークでの救援活動、 また地域の学校におけるボランティア活動などをしている人たちもいます。

 

エペソ4章に記されている五職の働きの目的は、聖徒たちが奉仕の働きをするように彼らを整える(そして派遣する)ことです。人々は励ましを受け、派遣され、主の導きに応じて働きを進めていく上で支えられる必要があります。 比較的小さな教会を通しても、人々が神の御国の祭司として遣わされるとき、驚くほど多くのことがなされます。リーダーたちの主要な役割は、自分たちの賜物をケースに入れて人々に見せるのではなく、「すべての人が奉仕をする」ことができるように人々に権限と力を与えることなのです。 実際的な奉仕において自分たちのいのちを差し出すリーダーたちは、キリストのからだが本当に意味で愛において建て上げ合うように導くことができるのです。

 

 

 

©著作権:2002 Tony and Felicity Dale 2006 日本語版発行
発行者:日本バプテスト宣教団(SBC IMB PacRim JO)メディア部
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