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シンプリーチャーチ

宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

[ 第5章  では、教会とは何か ]

 

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  1. はじめに
  2. 第1章  パラダイムシフト
  3. 第2章  聖域にメスを入れよう!
  4. 第3章  教会と神の御国
  5. 第4章  現在の神の御国と、まだ実現していない神の御国
  6. 第5章  では、教会とは何か
  7. 第6章  共に集まるとき
  8. 第7章  では、いったいだれがボスなのか
  9. 第8章  だれもがみな大切!
  10. 第9章  あなたはあっち、私はこっち
  11. 第10章 教会を始めてもいいですよ
  12.  ○付録
  13.  ○後注

 

第5章:では、教会とは何か

教会とは「二人、三人がキリストにあって集まること」です(マタイ18:15−20に書かれているイエス様の教えを参照してください)。最も単純なレベルにおいて、私たちはこれ以上に何を必要とするでしょうか。 イエス様がおられます。王が住んでおられるところ、王国はそこにあるのです。ですから、職場におけるバイブルスタディーのグループは、私たちが日曜日に行く場所よりも、おそらくより本当の「教会」に近いものでしょう。 そこでは私たちはお互いの必要を知ります。だれかが職を失ったり、同僚の子どもが重い病気で苦しんでいたりするのを知ります。本当に相手のことを思っているのかどうかが分かる状況において、互いに肩をさすり合い、実生活の課題やチャレンジを乗り越えるために助け合います。 また「今週誕生日を迎えるのはこの人たちです」と何人もの名前を単に読み上げるのではなく、より多くのことをすることができます。

 

世界中で最も急激に成長している教会は、ほとんどどこにおいても、教会員たちの家で集まる小グループを伴っているとは、興味深いことです。 1980年代初頭に、韓国のソウルにあるパウロ(ダビデ)・チョー・ヨンギ師の教会を訪問したとき、私は妻のフェリシティーと共に多くのチャレンジと強い印象を受けました。 当時、その一つの教会に約35万人いましたが、彼らは一人一人が弟子として訓練され、励ましと祈りを受けるために、毎週何万もの家々で集まっていました。

 

私たちが最近モザンビークで体験したように、小グループは一夜のうちに始めることができます。私たちはよく、人里離れた村で、数日間医療活動を行います。その地域にクリスチャンがいる場合は、彼らと合います。そして彼らと共に、夕方、木の下で伝道的な集会を行います。 文字通り数百人の人々がイエス様に人生をささげる決心をしました。それから私たちは、彼らがグループごとに礼拝者の共同体となるように助けます。建物がなくても、フルタイムの働き人たちがいなくても彼らが神にあって成長していくようにするためです。 そして、彼らとその国にいる使徒的、預言的な人々とつなげることを通して、彼らが土台を固め、神の時に成熟した教会となって他の人々に福音をもたらすようになるのを助けるのです。

 

教会を正真正銘の教会とするのは、建物でも、牧師でもありません。それは人々の間に示されるキリストの臨在です。モザンビークの数人の新しいクリスチャンたちが、交わり、学び、祈りのために土壁の家に集まり、 限られた食べ物を分かち合う姿は、日曜日の朝1000人の人々が「大聖堂」に集まり、90分間、数人の教職者たちのもてなしを受けるよりも、より教会らしく見えます。

 

 

新約聖書の時代、パウロと彼のチームは、しばしば、一つの場所には短期間しかとどまらずに、迫害や聖霊の促しによって次の場所へと移動していったのを私たちは知っています。 それから数ヵ月、あるいは数年後に彼らが再び訪ねたとき、教会が成長し、成熟しているのを見ることができたのはなぜでしょうか。二つのことがはっきりと分かります。第一に、彼らは回心したばかりの新しいクリスチャンたちを神にゆだねました。 彼らの聖霊に対する信頼は、理屈の上のことではなく、実際的、現実的なものでした。もし神がこの新しいクリスチャンたちを導いてくださらなければ、導く者は他にだれもいなかったのです。 第二に、彼らは新しいクリスチャンたちが自分たちで運営し、自分たちでリードしていくように彼らに権限をゆだねました。巡回して奉仕する者たちの手助けは補助的なものであり、教会の成長の本質的な条件ではありませんでした。40

 

クリスチャンたちが神の国を第一に求めるという召命の光のもとに生きるとき、彼らの生活のすべての領域は聖霊の支配のもとに置かれます。すると突然、関心事は「あなたは十一献金をしていますか?」ではなく、「あなたは何を自分の手元に残しているのですか?」になります。 結局のところ、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」41ということなのです。教会生活に対するこのアプローチを実践すると、非常に多くの資源を神の御国のために解き放つことができます。教会が終わりのない建築プログラムや、より多くのスタッフを雇うことによる重荷を負わなくて済むなら、宣教や、 また経済的に貧しい人々や必要のある人々を助けるために、驚くほど多くのものを注ぐことができます。このようなタイプの教会にとって、教会の内にいる人々を保つためにではなく、 教会の外にいる人々に届くために、収入の70パーセント、さらには80パーセントをささげることは特別なことではありません。

 

ある有名なメガチャーチにいた一人のリーダーは、その教会のリーダーをやめるに至った状況について私たちに話してくれました。 彼は教会のリーダー会に出席していましたが、教会の予算は何億円もの規模であったにもかかわらず、クリスマスの直前に仕事を失った若い夫婦のためにその予算を使うことは許されませんでした。 派手な建物を立て、たくさんのお金をかけてクリスマスのプログラムをしているにもかかわらず、自分たちのメンバーを助けることができないというのはおかしいと彼は感じたのです。

 

このような話を聞くと、「教会とは何か」と自問させられます。興味深いことに、新約聖書にはわずか3つのタイプの教会のことしか記されておらず、イエス様はそのうちの2つのことしか述べておられません。 第 一に、すべての時代と場所における、全世界のすべてのクリスチャンからなる普遍的な教会があります。イエス様はこの教会について次のように言われました。「ハデスの門もそれには打ち勝てません」(マタイ16:18)。

 

 

第二に、家でクリスチャンたちが少人数で集まる教会があります。イエス様はマタイ18:15−20で教会戒規をする場としての教会について語られ、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所」として定義されました。 小人数で集まることについては、使徒の働きの最初の部分(使徒2:42−46参照)から、書簡に記されている様々な家の教会、さらには自分の家を開放して信者たちに奉仕したパウロの働き(使徒28章参照)に至るまで、継続して強調されています。

 

教会についての第三の、そして最後の記述は、書簡の筆者たちがエルサレムの教会やエペソの教会というふうに、地域における教会についてくり返し記していることです。 このような地域における教会とは、一緒に集まるかどうかはともかくとして、その地域にいるすべてのクリスチャンから成り立つものです。

 

私はオースティン市南部に住んでいます。しかし私が属している「教会」だけが、南オースティンの教会なのではありません。南オースティンに住む、私たちの主を愛するすべての人々が教会に連なっているのです。 ある町を端から端まで移動して(教理的に自分と同意する)人々と1、2時間交わりを持つことは、本物の教会生活に対する風刺漫画のようなものです。ペテロとパウロは意見の相違をあらわにしたというだけで(ガラテヤ3章参照)教会に属さなくなったのでしょうか。 もしあなたが『マーチ・フォー・ジーザス』に参加したことがあるなら、おそらくそれは、どのような教派よりも、あるいは「どの教派にも属さない教会」よりも、あなたの町における教会というものを、よりよく表現したものであったでしょう。教会の指導者たちが、他の多くのクリスチャンたちとともに、教派の違いを乗り越え、自分たちの町のために祈るという記事を読むととても励まされます。 いわゆる「シティー・リーチング(訳注:諸教会が一致して町の福音化のために協力する働き)」という試みが様々ところでなされ、注目すべき成功を収めていることは、同じ地域に住むクリスチャンたちが、みな同じキリストのからだに属しているということを理解するのを助けています。

 

では、クリスチャンたちが集まるとき、どのような機能を果たすべきなのでしょうか。

 

 

 

©著作権:2002 Tony and Felicity Dale 2006 日本語版発行
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