アーティクル

説教以外のコミュニケーション:ルカの福音書第10章1−11節から

『福音主義神学』(第43号)より転載
宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

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はじめに

本稿の目的は、ルカの福音書第10章の七十弟子派遣の記事に登場する二人組の弟子たちと宣教地の人々との間のコミュニケーションを分析することにより、日本の地方教会でなされている説教、つまり「学校型モノローグ」とは対極をなす「宣教現場における双方向的コミュニケーション」を、日本の教会に導入するための道を模索することである。

 

 

Ⅰ. 七十弟子派遣エピソードの背景

福音書には、イエスご自身が取り組まれた弟子たちの組織的な派遣の記事が二種類記録されている。一つは、イエスによる「十二弟子の派遣」で、もう一つは、イエスと十二弟子による「七十弟子(あるいは七十二弟子)の派遣」である。

 

ルカの福音書第10章に記されている七十弟子の派遣の記事は、十二弟子もまたイエスと一緒に派遣する側に立ったという意味で、派遣の連鎖のプロセスを伺う重要な資料である。十二弟子は、七十弟子と同行しないことで派遣する側の立場を経験した。つまり、ここで示唆されているのは、十二弟子と同じように、七十弟子もまたやがて派遣する側に立ち、自分たちが育てた弟子たちを派遣するという循環が起こったという点だ。そして、その後も、派遣する度に約6倍(70÷12≒6)の人数を送り出すということが一つの型になったと考えられることだ。#1弟子派遣の二種類の記事は、大宣教命令の実行が、弟子育成者の連続的な派遣に伴う、弟子の幾何級数的な増加によってもたらされたことを主張しているように思われる。

 

ルカの福音書第10章の派遣が非常に成功したということは、直後に記されている弟子たちの喜びの報告によって明らかである(ルカ10:17参照)。ミッションの成功は、緻密な計画が実行された結果というわけではない。戦略は、漁師たちが実行できるシンプルな指示によって構成されていた。「無学なただの人たち」(使徒4:13)と見られた人たちは、分厚いマニュアルを読むことはできなかっただろう。記されている項目は、「覚え書き」とか、「きっかけ」とかと表現した方がよいほど簡素なものだった。実際、真に有効な戦略はシンプルなのだ。

 

戦略がシンプルだった理由は、少なくも三つあると思われる。第1に、賜物が豊かで優れた能力を持つ一握りの人たちだけでなく、誰でも実行できるようになるためだった。このシンプルさが増殖の鍵だ。第2に、詳細なマニュアルがなくても為すべきことがすでに身に付いていたからだ。派遣された者たちは、派遣前に、イエスご自身や兄弟子たちとの生活が共有されていたことで、模範を見たり、練習をしたり、委任されたりした経験が豊かにあった。第3に、彼らは聖霊の導きを受けていたので、その場その場で父に聞きながら、時に応じて行動することができたからだ(マタイ10:20参照)。

 

弟子たちが派遣された町は皆ユダヤの町だったし、弟子たちは全員ユダヤ人だったので、イエスが行くようにと命じられた目的の町に着いた日とその翌日は、宿泊を手配する必要はなかった。なぜなら、自分たちの町に来た旅人がユダヤ人だということを町のリーダーたちが判別した時点で、彼らは町のゲストとして有力者の家に斡旋されたからだ。旅人たちは、2日の間、無料で宿泊したり飲み食いしたりすることができた。イエスは、すでにあったユダヤ人の相互扶助システムを用いて宣教を進められたのだ。

 

その伝統は、次の時代の使徒たちにも受け継がれた。パウロは新しい町に行くと、ユダヤ人の会堂で話した。マタイはエチオピアまで、アンデレはロシアまで、トマスはインドまで行ったと言われているが、彼らは、点在するユダヤ人のコミュニティを辿っていったのだと思われる。会堂は魂の刈り取り場であり、平安の子たちとの出会いの場所だった。#2そういうわけで、ルカの福音書第10章で派遣された2人組の弟子たちは、どこに行っても、財布も袋も持たずに旅行できたのである。

 

しかし、滞在三日目以降にも続けてその家に宿泊するためには、何らかの料金を支払うか、家業を手伝う必要があった。二人の弟子たちはお金を持っていくことを禁じられていたので、宿賃を支払うというオプションはなかった。彼らは、三日目以降、平安の子の家業を手伝ったと思われる。海辺や湖の町なら、漁に一緒に出ただろうし、農耕なら農耕を、放牧なら放牧をというように、何であれ、世話になった家族の仕事を手伝うことで、引き続きその家に留まったのである。

 

弟子たちのコミュニケーションは、食卓と仕事場、つまり日常生活の中でなされた。イエスが所有物の携帯を禁止されたのは、彼らが仕事場で福音を伝えるためだったと考えられる。もし、イエスが福音宣教のために学校システムが有効だと思われたなら、今でも「イエス大学」みたいなものが残っていただろう。イエスのコミュニケーションは、徹頭徹尾、教室での講義ではなく、生活に直に関与することによってなされた。