アーティクル

習うより慣れろ―日本における草の根弟子育成プログラムの一事例

Practice Makes Perfect―A Case Study of a Japanese Grass-roots Discipleship Training

『宣教学ジャーナル』(第3号)より転載 / 宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

4ページ/5

 

Ⅳ.相互にフィードバックする

1.ベンガルボダイジュとバナナ

ある町に有名な説教者が住んでいた。日曜の礼拝はいつも満員御礼状態だった。遠くから彼の「生」説教を聞くために、聴衆が押し寄せたからだ。ところが、彼が死んだ後、その教会は閉鎖された。働きを受け継ぐ人がいなかったからである。他の追随を許さないほどに優れた働きは、それ自体は何も批判されるべきものではない。しかし、その人がいなくなった後、その働きがどう継続されるかという点が配慮されないと、一時的な現象で終わってしまう。ポール・ヒーバートは、「ベンガルボダイジュとバナナ」という二種類の植物を引きあいに出して、「リーダーを育てるリーダー」を育成することの重要性を指摘した。

 

日本でも観葉樹として人気の高いベンガルボダイジュは、原産地のインドでは、幹の直径が100メートルを超える巨木に成長することがある。一本しかないのに森を思わせる景観を作りだす。その旺盛な生命力のゆえに、長寿と豊饒を願う聖木としてあがめられている。この木の下で、人も鳥も動物も暑さをしのぐことができる。しかし、「ベンガルボダイジュの下には何も育たない」ということわざがあるほど、木の下には何の植物も育たない。枯れた跡には1エーカーにも及ぶ「何も生えていない大きな空き地」ができるそうだ。それとは対照的に、バナナは別の意味で生命力豊かな植物だ。もちろん、ベンガルボダイジュのようなりっぱな幹や、張り巡らされた枝はない。寿命も1年半に過ぎない。しかし、6ヵ月毎に新しい芽が生え出て、実を成らせていく。そのため、年間を通じて開花結実をし、そのサイクルは次々に受け継がれ、みるみるうちにバナナの森ができるとのこと。

 

ヒーバートは、多くのリーダーをベンガルボダイジュにたとえる。ベンガルボダイジュ型のリーダーが素晴らしい働きをしても、後継者を見つけることは困難だ。なぜなら、彼らはリーダーではなくフォロワーを生み出すからだ。フォロワーというのは、リーダーの思考を推し量り、その指示に従う人たちである。フォロワーはリーダーの話を喜んで聞くので、リーダーも自分のプライドを満足させることができる。リーダーはフォロワーが学ぶべきこと、そして学ぶ方法について決定する。そして、リーダーが作ったプログラムの一翼を担うことができるように配置する。フォロワーは比較的短時間で育てることができる。しかも、それはそれなりの効果を生む。ところが、リーダーが去っていくとき、そこには依存的な「指示待ち族」だけが残ることになる。このようなリーダーシップスタイルは、次世代のリーダーの潜在的な自律の芽を摘み取り、人々の成長を妨げてしまう。

 

フォロワーではなくリーダーを育成することは、自尊心を満たすという観点から考えると、報いの少ない仕事だと言えるだろう。リーダーを育てようと思うなら、被育成者の考え方やスタイルを、育成者のそれらに同意させようとしてはならない。神との直接的な会話を通して、自分で考え、自分で決めることができるようにコーチする。そのようにして、育成者の信念に対して疑念を抱き、その決定に異議を唱える力を身につけさせるのである。そうするならば、やがて彼らが仕事を引き継ぐときに、育成者の限界を乗り越えていくことができる。また、前の世代から引き継いだ恵みの土台の上に、新たな時代の新たな地平を切り開くことができるのである。

 

彼らが成長したり何かを達成したりしたときには、「自分たちでもできる」という確かな手ごたえを得、健全な自信を持つことができる。たとえ、若い人たちが粗削りであっても、物事を単純化し過ぎていても、それらを神経質に正そうとしないで、むしろ続けて自分の頭で考えるようにと、励まし続けなければならない。また、虎の巻に頼らないで、「自分の責任で解決すべき問題」が何かを自覚し、そこに注意を向けることができるように助けなければならない。このような育成には時間と労力がかかる。対話しながら、失敗から学ぶ機会を提供しながら、自律性を尊重して育てるからである。しかし、このように育てられたリーダーたちは、多くの日の後に、自分の能力を発見し、自ら新しい責任を引き受けるようになる。そして、育成者は、自分を踏み越えていく若いリーダーたちに囲まれるようになる。それが育てる者にとっての報いである。もし、「フォロワーを育てるリーダー」ではなく、さらに踏み込んで「リーダーを育てるリーダー」を育てることができるなら、何世代にもわたって育成の連鎖が続いていく霊的な子孫の群れを見ることができるようになるだろう。

 

2.様々な関係におけるフィードバック

自律的に判断し、自発的に行動するリーダーを育てるためには、彼らが受動的に聞くだけではなく、自ら話したり行動したりすることができる機会を与えることが重要だ。トレーニングセミナーでは、学んだ情報やスキルを、参加者自身が自分なりに整理した後に、実際に使うことができるようになるための練習を多く取り入れている。二人組になり、相手を回心直後の人に見立てて、相互に練習する。それをすることで、取り入れた情報をアウトプットする機会を意識的に設けているのである。茂木健一郎は、「脳の『出力』を高めるためには、脳に『入力』された感動した言葉、役立ちそうな情報を、友人などに実際に話して『出力』することが大切です。その結果、その言葉や情報が自分の血となり、肉となって整理されるのです」と述べている。7年間この種のトレーニング設計に携わってきてわかったことの一つは、いくら上手に説明しても、セミナーの時間内に練習しなかったことは、参加者が帰った後に実践することはないということだ。一方的に教えるスタイルは、「独り相撲」を取るようなもので、いくら一所懸命にかかわっても、その先には、笛吹けど踊らぬ人たちをうらめしく眺めるという結果が待っている。

 

練習した後は、必ず相互にフィードバックをしてもらうことにしている。たとえば、二人組になり、「天外内神学」を90秒で伝える練習をするときには、まず聞いた人が、先に話した人にフィードバックをする。どういう表現がよかったかを二つ指摘するという具合だ。学んだことをアウトプットすることで、記憶がより強く定着されるし、新しいアイデアに対するオーナーシップを持つことができる。また、他者のフィードバックを聞くことで、物事を多角的に見ることができたり、参加者全員で新しいアイデアに対する共有意識を持ったりすることができる。

 

一通り相互のフィードバックが終わったら、参加者全員で自由に話し合う。そのエクササイズ自体の内容ややり方について感想を述べてもよいし、学んで気づいたこと、話して気づいたこと、聞いて気づいたこと、フィードバックをして気づいたこと、フィードバックをしてもらって気づいたこと等、何でも自由に話し合う。そのような話し合いを通して、さらに新しい気づきが与えられることもある。トレーナーやトレーニング設計者もそこで学ぶことができる。そのため、多くの場合、トレーニングセミナーを開いた後、資料を改訂することになる。トレーニングセミナーが終わると、期限を定めた具体的な課題を出すが、その課題に取り組んでどうなったかを相互に報告するところまでを課題の範囲に含めている。

 

トレーニングセミナーには、ほとんどの場合、トレーニングを部分的に担当するインターンが参加する。「受講したときには、本当には理解していなかったということを、インターンをしてみて分かった」という感想を述べる人々が相当数いる。インターン制度は、インターンが成長して、自分でトレーニングを主催するようになるための、大切な学びの機会である。とりわけ、トレーニングが終わった後、トレーナーとインターンが互いにフィードバックをし合うことは、両者にとって有益なときだ。多くの場合、人は教える立場に立って初めて、自律的に物事を捉えるようになる。「自分がトレーナーとなり、インターンと一緒にトレーニングを導くときにはどうすればよいか」と考えるのだ。能動的な関わりの中で、自分の未熟さや受講者のニーズも意識するようになる。このときに、トレーナーがインターンの良い所を認めて励ますことが重要である。

 

インターンがトレーナーのやり方に異議を唱えるようなことがあるなら、インターンが自律的に自分の頭で考えて、真剣に取り組もうとしている可能性が高い。トレーナーが自尊心を捨てて、虚心坦懐に耳を傾け、資料を改善するなら、トレーニング自体の有効性が高まる。天外内トレーニングには、様々なアレンジが加えられ、すでに多くの人たちが設計者抜きでトレーニングセミナーを開いている。その中には外国語でトレーニングする人たちもいる。インターンには、トレーナー用のガイドブックを含めた資料を渡し、教材を創造的に編集したり、独自のトレーニングを開発したりすることを奨励している。

 

このように、セミナー参加者やインターンが学んだことが、血となり肉となるための、様々な装置を設定しても、残念ながら実践し続ける人は、セミナー参加者の15パーセントから20パーセントぐらいだと思われる。トレーニングを始めた頃は、20人いても3~4人しか実践しないという結果を見て、自分を責めることもあった。しかし、海外で同様の草の根育成トレーニングをしている人たちに聞くと、非常に大きなムーブメントになっているところでも、同じぐらいの割合の人しか実践しないということがわかってきた。種まきのたとえ(マタイ13:3−23、マルコ4:2−20、ルカ8:4−15)でも、実を結ばない原因は、種にではなく地にあると説明されている。もちろん、育成者の未熟さの問題は残るが、たとえ理想的なまき方ができたとしても、実を結ばない種もあるということだ。

 

以前は、実を結ばない人たちを見てがっかりすることが多かったが、今では、実を結び始めた人を助けることに集中できるようになってきた。「成長させてくださる神」(Ⅰコリント3:7)の主導権を認め、被育成者を神に委ね、植えるように命じられたときには植え、水を注ぐように導かれたときには水を注ぐ。そういう意味では、神ご自身との相互のフィードバックが、育成者を支えるのである。

 

3.対話型聖書学び会

以前筆者は、礼拝説教をするのが好きだった。神との親しい交わりの中で、真理を尋ね求めることが、クリスチャンの醍醐味だと思っていた。教えられた真理を、説教を通して人々と分かち合うことも楽しかった。ところが、悩みもあった。説教を聞いたほとんどの人たちは、「分りやすい」と評価してくれたものの、人生を変えようとはしなかったことだ。時には高慢にも、こんなに良い説教を聞いた人が、どうしてライフスタイルを変えないのだろうと思い、悶々としたこともあった。ある年配の信仰の先輩からは、「聖書がどう言おうと、現実は違う。先生は、お若いから、分らないのでしょうね」と面と向かって言われたこともあった。

 

そこで、思い切って説教をやめて、対話型で聖書を学ぶように礼拝の形を切り替えた。その頃は、参加者が一節ずつ読み、全員が読み終わった後、自分が読んだ節については、自分がまずコメントするというシステムにしていた。いつも文句を言っていたかの先輩が口を開いた。その方が読んだ箇所は、ヨハネの福音書9 章41節で、イエスがファリサイ人に語られた台詞だった。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」その方はそれを読んだ後に言った、「私は、見えると思っていましたが、本当は見えていませんでした。私は罪人でした」。その言葉を聞いて、思わず妻と顔を見合わせた。妻の目からは一筋の涙が流れていた。神が聖書自体を通して、その方に触れられた瞬間だった。その方は、その日から、まったく新しい歩み方をするようになられた。その方の言葉が、そしてその存在が、周囲の人々の祝福となっていった。

 

万人祭司説に同意する人は、すべての弟子が、神の言葉を受け取って、それを取り次ぐことができることを認めるだろう。対話型聖書学び会を通して、筆者は、説教をしていたときに味わっていた神との交わりの豊かさを、愛する神の家族の交わりの中で一緒に味わうようになった。今日回心した人や子どもの発言からも、神の美しさを教えていただくことができるということにも気づくようになった。確かに、一人が語りその他全員が聞くというモノローグ型のコミュニケーションの良さもある。しかし、信徒の群れが、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合」(コロサイ3:16)う場も必要である。その方が、多様で、生活に結びついたメッセージを、自律的に、自発的に、そしてより個別的に届けることができるのである。

 

『宣教学ジャーナル』(第3号)より転載