アーティクル

紀元1世紀の教会出席

(ロバート・バンクス著、三上章訳)

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その1 ユダヤ人夫妻からの招待

私の名前はプブリウスです。正確には、プブリウス・バレリウス・アミキウス・ルフスです。出身はピリピです。ピリピは、マケドニアにある比較的新しい植民地ですが、マケドニアの土壌にあるにもかかわらず、何から何までローマ風であることを、私は誇らしく思います。

 

いま私はローマにいて、長年の友であるクレメンスとユーオディアの家にしばらくの間滞在しています。

 

今日早めに私たちが皆で、近くにある家の夕食に行った際、とても不思議な経験をしましたので、その話をしたいと思います。それというのも、私の友人たちはアクラとプリスカというユダヤ人夫妻から、7日ごとに食事を共にするようにいつも招待されているのです。他に訪問客もいるので、私が出席するのに特別の招待は必要ありませんでした。

 

その2 ローマの町

私たちが出かけたのは、午後なかば、3時になる頃でした。ローマでも夏の間は、夕食の始まる時間が一般的に遅くなります。特に、お客がある場合にはそうです。長い間、広い道を通ってきたので、狭い街路が窮屈に感じられました。なかには幅3メートルにも満たない街路さえありました。しかも、何とも言えないほどのぬかるみで、足もとが不安定でした。ほとんどの人は、すでに仕事を終えていたので、かなり多くの人が辺りにおり、時には進みにくいほどでした。街路はくねくねと曲がっており、わずかばかりの方向感覚もすぐに失ってしまいました。行こうとしている場所を自分で見つける必要がなくて、本当によかったと思います。ほとんどの建物には家屋番号がなく、ほとんどの街路には標識すらないので、初めての人だったら道を探すのにたいへん苦労しただろうと思います。

 

ローマの町はとても大きくなっていました。ここには現在、ゆうに100万人以上が住んでいるでしょう。しかも、人口はたえず増え続けています。世界中の国で、ここに民族共同体を形成していない国は、まずないと思います。ユダヤ人だけでも5万人いると言われています。「ローマはもはや一つの都市ではなく、むしろ、独自の言語、習慣、職業をもつ諸都市の集合体だ」と言ったのは、誰だったでしょうか。

 

それは経済のためによかったのではないかと思います。彼らの多くが、地元住民に不足していた諸技術を持ち込んでくれたからです。奴隷や自由民の大量流入は、雇用問題を緩和してくれました。もっとも、それが今はやや重荷になっていますが。食糧事情もよくなりました。近頃は、ずいぶん多くの種類が出まわっています。しかし、文化の観点からは、すべてがごちゃごちゃした感じがします。私は昔の方が好きです。古きよき時代が、本当に一番よかったと思うのです。

 

アクラとプリスカが住んでいた通りには、ローマの他のほとんどのところと同じように、さまざまな建築様式が入り交じっていました。

 

かつて、そこはいろいろな物を売る店でいっぱいでした。店主は店の奥か、店の上の狭苦しい屋根裏部屋に住んでいました。その後ティベリウス帝の治世に、それらの大部分が火事で焼け落ちてしまいました。木と砕石とでできたこうした建物でいったん火事が起こると、消火が難しかったのです。

 

今、焼け残ったわずかな建物が、高くそびえる共同住宅群のそばに立っています。共同住宅群の中には5、6階建てのものもあります。さらに大きな火事の危険があるように思われましたが、それとは別に、建物が崩壊する危険もたえずありました。建物の多くはそれほど建て付けが悪かったのです。

 

何十年も前から、このような高層住宅がローマ中にそびえています。大部分の人たちは、今もこの形式の住居に住んでいます。レンガとコンクリート製のもっと高級なタイプの高層住宅の中には、新型の商店街さえ完備しているものもあります。

 

その区画の一つの端に、一戸建ての家が2軒ありました。町を取り囲む丘の上に見える宮殿ふうの大邸宅ほどではありませんが、それでも住み心地が良さそうな所でした。クレメンスの説明では、2軒のうち、より堂々としている方はいまだに個人の所有で、何世代にもわたって同じ家族のものでした。売却してアパートか下宿にしないかという儲け話があるようですが、現在の所有者たちは断っていました。こういうことは、ますますローマ中に増えているのだと思います。外国人の大量流入と、裕福な市民層における浜辺の豪華な別荘の愛好とがあいまって、こうした変化が起こりました。