アーティクル

自立を目指す子育て

2012年12月〜2013年3月号の「風知一筆」より転載:宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

1ページ/4

 

父母を離れて自立する

あるレストランで、偶然知り合いの親子と出会った。中学生の男の子を連れた40歳前後のご夫婦だった。それで、その中学2年生の誠君(仮名)に話しかけた。「沖縄の離島には、高校が無い島がたくさんあって、高校入学と同時に親と別れて本島で一人暮らしを始めたり、寮に入ったりする子が多いんだって? 誠君は、あと何年ぐらい親元に居ることになるかなあ。」

 

誠君がしばらく黙っているのを見て、父親が口を開いた。「高校には進学するとして、その後の進路にもよるなあ。もし遠くの大学に行って下宿するようになるなら、あと4年かなあ。」今度は、母親の直美さん(仮名)がしみじみと言った。「ひょっとして結婚するかもしれないしね。3人で暮らすことができるのは、本当に4年ぐらいかもしれないわね。」すると、誠君の顔がみるみる曇って、とうとう泣きべそをかいてしまった。

 

翌日のフェイスブックに、直美さんがそのときの心境を書き記された。「誠が私と夫の前で涙する姿に、寂しさではなく、嬉しさで、とても温かな気持ちになりました。小さいときは小さいときなりの、大きくなっても大きいなりの、かわいさ、愛おしさがあるものです。」

 

「私が子どもを持てたことはとてもありがたいことで、本当に恵まれたことだと思っています。昨日も、親になれたことの感謝を感じるそんな瞬間でした。息子にとっても貴重な機会をいただけましたが、私たち親にとっても大切な時間になりました。」

 

「ちゃんと出来るか不安。」とつぶやく息子を飲み込んでしまわないで、「子別れ」という子育て最後のステージを子どもと一緒に乗り越えようとする母親の記事は、多くの友人たちの共感を呼んだ。

 

「感動で泣いてしまいました。」「いいね♪100回以上押したいです。」「我が子への愛しさを感じ、我が両親からの愛を知り、己は、愛に包まれている事を知る。心があつくなる出来事ですね。」などのコメントが続いた。

 

しかし、母親が子どもを手放すことができないために自立を妨げてしまうという現象は、15歳の「島立ち」という現実と向き合っている沖縄の離島でさえ散見される。高校に入学する子どもと一緒に本島に移り住む母親までいるという。

 

子どもは、母親の分身ではなくて一人の人間だ。子どもは、母親の不安を解消するための慰め役でもなければ、破れた夫婦関係で生じた不全感を埋め合わせるための存在でもない。まして、親が若いときにできなかったことをさせるための代理人でもない。

 

子どもとの世界に没頭したり、干渉・拘束したり、過度に期待・要求したりすることで心のバランスを取ろうとする母親は、子どもとの関係を通して自分を満足させることだけを求めているとは言えないだろうか。

 

「過度に密着してくる母」に育てられた子どもは、社会の複雑な人間関係に対する免疫を持たないで育つ。自信を持てず、自己抑制ができず、付き合いベタになるなどの弊害が出てくるのだ。

 

くだんの直美さんは、誠君が巣立ちを意識し、次の成長のステップに進もうとしている姿を見て、愛おしいと思えた。子どもが母親である自分を必要としなくなるほど独り立ちするようになることを応援したいと思うことができた。直美さん自身が自立した女性で、自分の行動に対する責任を引き受けて生きる充実感を知っているからこそ、我が子の親離れを自然な成長の一段階として受け止めることができたのだと思う。

 

聖書は、「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2・24)と教えている。一体となるのは、妻とであって、母とではない。誠君が、父母を離れて、新しい仲間、そして新しいパートナーと、わくわくするような新しい旅を始めることができるようにと祈りたい。

 

被育成者の巣立ちを意識することは、自分の頭で考えて新しい局面を切り開くことができる人材を育成するためにも重要なことだ。教会においてもしかり。イエスマンで周りを固めようとしているのなら話は別だが…。