アーティクル

福音とは何か?

『リバイバル・ジャパン2011年9月18日号』より転載

宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

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感覚の訓練

父の心を行ない、福音の力を経験するためには、父の心を見分けなければなりません。

 

父の心は、要約的に述べると、神と隣人を一心に愛することと、そのような生き方をするキリストの弟子が地に満ちて、地を治めることなのですが、日常生活ではこまごまとした決断を下さなければなりません。進めなのか止まれなのか、右に行くのか左に行くのか。

 

聖書の言葉で見分けなさいと言われても、「強く、また雄々しく」(ヨシュア1・6)なら「GO」だが、「落ち着いて静かに」(イザヤ30・15)なら「STOP」となります。どちらが神の思いなのでしょう。さんざん悩んだあげく、時間切れで、「えい!」と言って決めてしまうということはありませんか。

 

神の思いを受け取るためには、「敬虔のために自分を鍛練」(第1テモテ4・7)することが必要です。そして、それは「感覚の訓練」なのです。ヘブル人への手紙には、「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5・14)とあります。

 

見分ける感覚を生活の場で訓練することなしに、ただ教室で教えるだけでは、ほとんどの人たちは成熟しません。もし、「乳を飲ませる少数の世話役」と「乳を飲む大多数の幼子」の二種類に、メンバーが大別される教会があるなら、知識の訓練はともかく、感覚の訓練がなされてこなかった可能性が高いと思われます。

 

この訓練は、生涯続きます。神の子であられたイエス様さえ、「多くの苦しみによって従順を学」(ヘブル5・8)ばれました。ゲッセマネの園で「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22・42)と祈ることがおできになったのは、日々なされた「聞いて従う訓練」の果実だったと理解することもできるでしょう。

 

リスクを取る

自分がしたいからでもなく、誰かに頼まれたからでもなく、ましてや、面子が立たないからでもなく、ただ、父の命令に従うということは、換言すれば、「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9・23)という言葉に応答することです。

 

ある日イエス様は、大勢の群衆の方に振り向いて言われました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14・27)

 

死ぬ覚悟もないような、いい加減な気持ちで従ってくると、嘲笑の的になるだけだと警告されたのです。「私についてくるなら、優しい人たちと過ごす快適で心休まる日々が待っています。道徳的で、品格ある生き方ができます。生き甲斐もできるかもしれません。だから、何も躊躇することはありません。違うと思ったら止めればいいんだから。」とはおっしゃいませんでした。

 

イエス様の要求は、大きな犠牲が伴うもので、「ご自分の生き方を辿れ」というチャレンジでした。私たちの師匠であるイエス様は、安全な場所に自らを置くことを潔しとされず、私たちを愛するがゆえに人間となり、馬小屋で生まれられました(ピリピ2・6 - 8参照)。

 

王に従う道は安全ではありません。時には、狼の中に送り出された羊のような状況に置かれることもあります(ルカ10・16 参照)。十二使徒は全員殉教したと伝えられています。しかし、これらの一握りの人たちが世界を変革しました。

 

父に従う生き方は、安全ではありませんが、胸おどる体験です。神は、私たちを愛しておられるので、安全なカプセルの中の、「そこそこ楽しいクリスチャンライフ」に留まることを許されません。神は私をワイルドな冒険に連れ出し、「世界を変革せよ」と言われるのです。

 

感覚の訓練を受けて従順を学び、世界を変革するためにリスクを取って出かけていくときに、キリストが私のうちに生きるという福音の力を経験することができるのです。