アーティクル

福音とは何か?

『リバイバル・ジャパン2011年9月18日号』より転載

宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

1ページ/2

 

私のうちにおられるキリスト

回心した人は、暗闇の中から、光輝く場所に引き出された人のようです。もう、闇の中にいたときのように、限られた自分の力で光る必要はありません。圧倒的なエネルギーを持つ太陽の光を浴びて、自然に光が反射します。

 

知恵を絞ったり、正しさを主張したり、潔さや正統性をアピールしたりしなくても、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(第1コリント1・30)神と結びついた人は、神の力をいただいて、神の栄光を反映させながら生きるようにされたのです。

 

聖書には、そういう人がたくさん出てきます。たとえば、ヨセフは、兄弟たちに捨てられ、異国で奴隷として過ごしました。しかし、神が共におられたので、彼が行くところはどこでも祝福されました。

 

20年後、エジプトの王であるパロの前に引き出されたとき、その後14 年間続く世界の変動と、それに対応するための政策と行動計画を示すことができました。そのプレゼンを聞いて、パロは家臣たちに、「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」(創世記41・38)と言いました。

 

福音とは何でしょうか。それは、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2・20)と告白できる立場を与えられていることです。

 

荒野のレッスン

それでは、福音の力、つまり私のうちに生きておられるキリストの力を、どのように経験することができるでしょう。

 

イエス様は洗礼を受け、御霊に満たされた後、すぐに宣教地には向かわれませんでした。御霊に導かれて荒野に行かれました。聖霊に満たされた神の子にとっては、何一つできないことはなかったのですが、宣教地で使命を果たす前に、なすべきことがあったのです。それは、悪魔の試みを受けることでした。

 

悪魔は、イエス様が神の子だという証拠を見せるようにとそそのかしました。イエス様はその場でご自分を証明することが可能だったのですが、「できるから」という理由では、力を現わそうとはなさいませんでした。

 

荒野のレッスンは、「ただ父が命じられたことしかしない」というミニストリーの基本を確認することでした。その結果、「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。」(ルカ4・14)と記されています。この「力」は、法的な裏付けのある力という意味です。

 

イエス様はその後も、父に命じられない限りは何もなさいませんでした。「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」(ヨハネ5・30)と書いてある通りです。

 

たとえば、ベテスダの池に行かれたとき、回廊にいた大勢の病人や身体の不自由な人々の横を通り過ぎて、38年間病床に伏していた一人の人だけをいやされました。これが、ニーズではなく、導きに基づいて行動する模範です。

 

では、果たして、父から命じられていないのに、御名によって預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇跡を行なったりすることができるのでしょうか。答えは然りです。

 

イエス様はそのような人に対して、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7・23)と宣告する、と言われました。これは、厳しい宣告です。父を無視した力の行使は、深刻な不法行為なのです。