リーダー育成

携帯メールの牧会書簡

宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

ページ3

 

3 イエス様を証しする(その2)

私が信じてきた思い違いの1つに、「しっかり教えると成長する」という神話がありました。そのため、以前は教えることに集中し、いかに正しく、いかにうまく教えるか、ということに心を砕いてきました。 しかし近ごろ、いまさらながら気づいたことは、成長するためには多くの失敗を経なければならない、ということです。人は現場で失敗しながら学ぶのです。 そこで、洗礼を受けたばかりの人が簡単にアレンジして使える例話などの「道具」を持たせて、まずは収穫の畑に「いってらっしゃい」と言うようになりました。

 

命の恩人を紹介する

敏君へ。君がイエス様を信じた夜に、ぼくがした話を覚えているかなあ。

 

小学生の女の子の話です。彼女はお母さんと一緒にいるのが嫌でした。参観日にも来てほしくないと言って断りました。なぜなら、お母さんの顔には醜いやけどの跡があったからです。彼女はそれが恥ずかしかったのです。

 

けれども、あることを通して、どうしてお母さんがやけどしたのかを知りました。沸騰したやかんのそばで遊んでいた幼い彼女の上に、煮えたぎったお湯がかかろうとしたそのとき、お母さんが身を投げ出して彼女を救ったのです。

 

お母さんのやけどは自分のためだったことを知ったとき、彼女はお母さんを嫌っていたことを謝りました。そればかりか、進んでお母さんと一緒に街を歩くようになりました。お母さんを誇らしく思ったからです。 「この人が私のお母さんなの」とみんなに言いたかったのだと思います。

 

イエス様は、罪深い生活と永遠の滅びから敏君を救い出すために、身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。本当は、私たちがあの苦しみを経験しなければならなかったのに、イエス様がそれを引き受けてくださいました。 だから、クリスチャンは、イエス様に謝り、その犠牲の愛に感謝するだけではなく、「この方が私の命の恩人です」と人々に誇らしく紹介するのです。

 

助けに来てくれた方

ある人が誤って井戸に落ちてしまいました。「助けて!」と叫んでいると、1人の人が、上から見下ろしているのが見えました。しかし、その人は「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と言って、そのまま立ち去ってしまいました。 どんな境遇でも「無念無想の境地に至れ」というのです。この1番目の人は釈尊を表わしています。

 

井戸の底から叫び続けていると、2番目の人が通りかかりました。その人も上から見下ろして、「なぜそこに落ちたか反省しなさい」と言って、そのまま通り過ぎました。この人は孔子を表わしています。 「自己を抑制し、他者を思いやって生きよ」という教え自体は正しくても、それを行なうことのできない人間の罪の問題は残されたままです。

 

3番目の人は、かわいそうに思い、危険を犯して井戸の底まで降りてきて、上まで引っぱり上げてくださいました。この方はイエス様を表わしています。 イエス様は弱り果てて倒れている私たちを放ってはおけずに、地上に人間の赤ちゃんとして来てくださいました。そして、私たちの身代わりに十字架にかかって生命を捨ててくださいました。 それは、信じる者たちが罪を離れ、復活の主と会話しながら生きる道を開くためでした。

 

一緒に片づけようか

敏君が自宅で1人でくつろいでいるときに、私が突然遊びに行ったとします。そして、敏君の部屋が散らかっているとします。さて、敏君は自分の部屋に私を案内してくれるでしょうか。おそらく、リビングで話をすることになるでしょう。

 

それでは、イエス様が敏君の家に行きたいと言われたら、どうしますか。恩義ある尊い方を迎えるためには、一生懸命掃除をして、きれいな部屋にお通ししたいと思うでしょう。 そして、就職試験のために学んだ「大人の」言葉を使い、片づいていない部屋のことはおくびにも出さないようにしようと思うかもしれません。

 

しかし、イエス様は、きれいに掃除をした応接間よりも、隠されている奥の汚い部屋の方に関心がおありです。イエス様はそこで何をなさりたいのでしょうか。 「もっときれいにしないと駄目じゃない」としかりつけようと思っておられるのでしょうか。それとも、「一緒に片づけようか」とおっしゃるでしょうか。

 

多くの人々が心の奥に、傷やコンプレックスや罪を抱えて生きています。イエス様は「すべての人が救われて、真理を悟る」ことを望んでおられます。 そして、真理なる方は、腰に手ぬぐいをぶらさげて、一緒に掃除をしてくださる方なのです。

 

あんたを待ってたんや

たとえば、敏君が救命救急医だったとします。仕事を終えて帰ろうとすると、瀕死の病人が運ばれてきました。いま帰るところだからとか、忙しいからとか言って、その病人を放っておくでしょうか。

 

現在日本では、1年間に3万人以上の人が自殺しています。1日あたり80人以上。これは結構な数だよなあ。ということは、自殺しないまでも、霊的に瀕死の状態の人々が私たちの身近にいるということです。

 

もし、彼らの霊的状態について知り、私たちだけが「いのちの福音」を委ねられた者であることを自覚するなら、人々に対する接し方が変わってくるでしょう。人が「永遠の死」に向かっているときに、「忙しいから」という言い訳はしにくいよなあ。

 

救われてすぐの頃、親戚のおばちゃんが死の床に就いていることを聞いて、山奥の病院までお見舞いに行きました。痩せ細った彼女は私を見て、「みつお君、あんたを待ってたんや。あんたに聖書をもろうたときに信じとけばよかった。けど、こんなんなってしもうた」と言いました。 私は「おばちゃん、今からでも遅くないよ」と言って、福音を伝えると、彼女はそれを喜んで受け入れました。それから3日目に、彼女は天に召されました。

 

「敏君を待ってたんや」という人が、敏君のまわりにもいるかもしれません。