リーダー育成

教会増殖とリーダー育成(大橋秀夫氏との対談)

宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男

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特別対談:教会を生み出す教会:各論1


「対話型」が、万人祭司的な信仰を生む
    福田
  1. 私はここ5年くらい、自分の教会で説教していません。説教作りは好きですし、神様に教えられた発見を分かち合うのも嬉しいのですが、説教では教会の人たちのライフスタイルが変わらなかったんです。知識は増えるけど、生活は変わらない。

 

    大橋
  1. そうそう。

 

    福田
  1. それで、今は説教をしないで、「対話型聖書学び会」というのをしています。説教者が一方的に教えるのではなく、参加者が聖書から相互に学びあうという方法です。説教者が話さないで場が持つか、と危惧する方もおられると思いますが、自分の話をするのに慣れてくると、皆さん、生き生きと話し出します。

 

    大橋
  1. 信徒の人たちにも楽しいですよね。

 

    福田
  1. ええ。信徒の人たちも話したくなってくる。むしろ、みんなが我先に話したがって困ってしまうという問題が起こることもあります(笑)。それで、聖書を1人1節ずつ読むようにして、自分が読んだ節についてのコメントは、まずその節を読んだ人がする、というルール作りをしたことがありました。

  2. ある日、年配の信徒の方が、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです(ヨハネ9・14)」という箇所を読まれました。そして、「私は罪人でした。私は見えていると思っていたけれども、本当は何も見えていませんでした」とおっしゃいました。 私はその場にいて、神様がこの方に直接教え、神様がこの方をへりくだらされた、と思いました。その日を境に、その方の生活が変わりました。誰もその方に「あなたは罪人でしょ」とか「罪の告白をしなさいよ」とか言うことはできない。イエス様しか言えない。聖書が直接教えたんです。それから、その方のライフスタイルが変わりました。

  3. 説教したら、説教者である私自身はスッキリするけど(笑)、人々の生活は変わらなかった。けれども、説教しなくなって、人々が神様に直接触れられて、生き方を変えられるようになった。どっちが良いかと言えば、後者ですよね。対話型にするようになって、救われてすぐの人からも、子供からも教えられるようになりました。とても豊かな学びです。 いつも一つの角度から学ぶんじゃなくて、いろんな人が、各自神に教えられたものを持ち寄ってシェアするという。そういう共同作業のダイナミクスがあるんですよね。

 

    大橋
  1. 私はいつも言うんですが、いわゆる教育学という視点から見たら、説教の効率・効果は、実際は語ったうちの5%しかないんです。でもいわゆる説教という演繹的なスタイルではなくて、自分が話す、自分から参加して気付いたことを分かち合っていく、そして自分に適用していくという帰納法的なかたちでいけば、70 ー80%の教育効果があるわけですね。それで、牧師は最悪の教育方法をいつも選んでやってるわけです(笑)。「これが最良だ」と思って。

 

    福田
  1. 他人から聞いたことは行なわないことが多いのですが、自分が話したことは、行なう確率がかなり高い。そしてもし、自分が話したことを行動に移したら、その真理は、ほとんど自分のものとなっていきます。

 

    大橋
  1. そうですね。

 

    福田
  1. モノローグ的な「教室型」から、ダイアローグ、つまり「対話型」への移行です。参加者がそれぞれ自分で話す機会がある「対話型」の方が、「岩の上に家を建てた賢い者」つまり、「聞いて行なう者」となる可能性が高いわけですね。教会は試されると思うんですよ。嵐が来るときに、残るのは、「行なう者」がたくさんいる群れだと思います。そういう意味では、教会が少し変わっていくことが大事かな、と。

 

    大橋
  1. 万人祭司的な方法ですよね。

 

    福田
  1. そうです。伝統的な教会が、ハウスチャーチになっていく道もあるとは思いますけど…。いきなりハウスチャーチに変わることを考えるよりも、まずは、ハウスチャーチの万人祭司的な要素を、一部取り入れるという「ハイブリッド型」を目指す方が、現実的な選択肢かもしれません。

 

    大橋
  1. 形式的な万人祭司でしかない今の教会のスタイルでは、やはり牧師が祭司そのものになってしまっているわけ。なぜそれでも万人祭司と言えるのかといえば、「信徒の中から選ばれてきた人が役員なり執事なりしているから」というだけのことであって、信徒たちも含めてその理解に立っていると思う。

  2. では、それ以外の教会の人たちは祭司的な役割をしているのかというと、「一人ひとりが祭司としての自覚の中で…」と言うふうな、ちょっと変な言い方だけど、「万人祭司」の理解の仕方が信徒側に放り投げられちゃってるんですよね。さじを投げられちゃってるって言うかな。そういう現実ですかね。それをどれくらいの信徒が受け止めているかが問題。すべての信徒がそれを正しく受け止めているわけではないんじゃないかと思う。

 

    福田
  1. えぇ。多くの信徒の方は、どう思っているかというと、「牧師先生の説教を日曜日の朝に聞きに行く。そうして霊的な栄養をいただいて、1週間サバイブしましょう」という考え方だと思います。ところが、神の声に聞き従うっていうのは、クリスチャンの基本で、日曜だけすることではない。それはもう1日24時間週7日の課題です。そして、神の言葉に聞き従うという方向性をもった「学び合う交わり」も、ある特定の場所で、特定の機会になされるんではなくて、日常生活の中でなされるのが基本だと思うんですよ。

 

    大橋
  1. そうですね。そういうものですよね。最近かなり多くの教会がセルグループを取り入れる方向に動いてきていますけれど、私はいつも、「その中心はセルライフだ」と言います。ところがそれはほとんど牧師には理解されないんですね。いわゆる教会の中にスモールグループを形成すれば、それだけで「うちの教会はセルグループを持っています」とか「うちもセルを始めました」ということになってしまう。こうなるとセルグループという「プログラム」をそれまでの教会形成のかたちの上にもう一つ積み上げていくだけのことで、セルが本当の意味で生活化していない。 だから御言葉を自分のライフスタイルの中にきちんと取り込めないまま、やっぱり教会生活と日常生活とが二分されたような状態になってしまう。極端に言えば、鉢植えされたようなクリスチャン生活をする方がいらっしゃるわけですよね。